歴史映画というよりナポレオン密着ドキュメンタリーな映画『ナポレオン』

映画『ナポレオン』オフィシャルサイト | ソニー・ピクチャーズ

 

 高校のときの世界史の勉強をひたすら思い出していた。フランス革命に始まる欧州近代史の勉強は、なかなかに楽しかった記憶がある。テニスコートの誓いだのアンシャンレジームだの恐怖政治だのなかなかカッコよさを感じる用語が飛び交って、そして現代史との連続性も感じる時代であったため、教科書なり用語集を読み漁ったものである。そんな思い出を抱きつつ、当時の得意科目が世界史であったこともありまして、フランス革命におけるマリーアントワネットの処刑からナポレオンのセントヘレナ島の最期までを描いた『ナポレオン』を観たわけである。

 さて、物語は必ず起承転結が必要である。加えて、映画ではところどころに盛り上がるポイントを入れ、この先をもっと観たいと思わせる工夫が必要である。この作品は、マリーアントワネット処刑からナポレオンのセントヘレナ島での最後までを文字どおり描いており(とはいえオミットされた史実もあるが)、なんというか淡々とナポレオンの人生模様が続いていく。ジョゼフィーヌとの愛憎劇と戦争シーンが交互に繰り返されているので、まぁ盛り上がるシーンはところどころに挿入されるのだが…。そして2時間40分近くある上映時間でもあるので、「長い...」と感じてしまう。そのせいで終盤の魅せ場であるワーテルローの戦いのシーンでまさかの寝落ち! ウトウトしながら観ていたら気づいたらイギリス軍がロの字陣形を組んでました...。途中で起きてよかった。

 では、淡々と史実を並べていく、そして長い上映時間ということで、歴史がわかりやすいかというと、そうでもない。この作品での神の視点は俯瞰しておらずナポレオンに密着している。そのため、なかなか歴史上の出来事の繋がりが理解しにくい(まあそれは教養なのでは?、と言われればそうかもしれないけど...。欧米人はこのへんよく知ってるんですかね)。たとえばナポレオンがクーデターによって総統政府を打倒するシーンや、皇位を得るシーン、そしてロシア遠征の失敗から退位のくだりなど、かなり歴史の知識を前提として組み立てられている気がする。まあなんとなーく最低限の理解はできるようなつくりにはなっているが、大学入試の世界史より難しい!! と思ったのも事実である。Wikipediaで予習してから観たほうがいい。

 もうちょっとナポレオンの功績にも触れてやってよ~と思ったのも事実である。たしかにナポレオン戦争では300万人以上の犠牲者が出ている。その観点からいえば、「果たしてこの人物は英雄だろうか」という問題提起を中心に描かざるを得ない。とはいえ、自由・平等・博愛を謳い王政を打倒したフランス革命精神を潰そうとした対仏大同盟による武力行使があってのナポレオン誕生である。内政面においてはナポレオン法典の整備など諸々の功績はあるわけで、この作品だけ観ると、ナポレオンの野望と名誉欲だけで世界中を巻き込み沢山の犠牲者が出した悪魔のようにしか思えず、ちょっとフェアでないような気もした。フランス革命後にヨーロッパ中からいじめられたフランス、という国際情勢をもう少し補足をして観客に同情的にみせるやり方をしてもよかったのにな~というふうに思った。まあすでに英雄視されすぎているから良いのかも。

  と、マイナスポイントを並び立ててしまっているが、当然グッドポイントもある。それぞれの合戦シーンは、かなーり力がいれられており見ごたえがある。特にアウステルリッツ三帝会戦は、軍師ナポレオンの才能と残酷さを画から感じられてとても素晴らしい出来栄えである。多くの世界史選択者がかっこいいと思ったであろう「アウステルリッツ三帝会戦」が映像化されたことに喜びを禁じ得ない。そして、それと対照的に描かれるワーテルローの戦いも良い(ちょっと寝たけど)。すでにナポレオンの戦略が通用しなくなってしまったことが戦況という視覚的に描かれている。「アウステルリッツの勇者たちよ」と兵士を鼓舞する皇帝ナポレオンも、過去にすがる姿のようで無様である。ド迫力の合戦シーンを大スクリーンで観れただけでも、劇場鑑賞の価値はあったと思います!

 あとは、ナポレオンとジョゼフィーヌの関係性がセカイ系のように描かれているのは、上記のマイナスポイントと感じる一方で、きらいではなかった。ナポレオンがエジプト遠征から凱旋したのも、ジョゼフィーヌの浮気が原因であった。そしてロシア遠征が上手くいかないのも、ジョゼフィーヌとの離縁が原因にあった。みたいな観方もできるような気がして、ふたりの恋愛模様が欧州世界に影響をあたえているのはさながらセカイ系のようであった。まあアニメとは異なり、恋愛模様は生々しいんですが。歴史上の偉人を一人物として描いていくのは、さながら北野武の『首』のようでもあった。ナポレオンの求愛行動の唇慣らしと子づくりで朝食をのシーンは必見。もはやコントである。

 ということで、この作品は、歴史映画でも伝記映画でもなく、ナポレオン密着ドキュメンタリーと理解したほうがよい。上映時間は長いし人は選ぶと思うが、合戦シーン(と朝食子づくりシーン)は一見の価値ありであるので、楽しい作品だと思います。

悪魔祓いインフレについていけてない『エクソシスト:信じる者』

Review: 'The Exorcist: Believer'

 

 悪魔祓い映画が激熱の2023年...。死霊館フランチャイズの最新作である『死霊館のシスター2』や『ヴァチカンのエクソシスト』などが席巻するなか、年末には元祖悪魔祓い映画の続編である『エクソシスト:信じる者』が公開されました!! インディ・ジョーンズやらゴーストバスターズやら過去のIPが蘇る昨今のハリウッド映画ではあるが、どんな仕上がりなのかワクワクして鑑賞しました。

 が!! やはり1973年代当時に『エクソシスト』が評価されたのは、悪魔祓い映画としてのジャンルのパイオニアであり、かつそれが素晴らしく模範になる内容だったからである。ポルターガイスト現象や悪魔憑きの描写、そして大事な人と日常が静かに侵食されていく恐怖。このあたりを映像的に説得力のある表現と演出で描いたからこそ、初代『エクソシスト』は名作として評価されている(のだと思う)。そして時は流れ映像技術も進化し、人々の価値観も変わっていった。時が流れるにつれて、少年マンガの登場人物もしかり、対戦ゲームやカードゲームもしかり、そして経済もしかり、すべての物事はインフレしていくのだ。悪魔祓い映画であってもそれは例外ではない。

 『死霊館のシスター2』では、もはや最終的には大怪獣大場荒れ的な演出もあり、建物がブチ壊されていく。『ヴァチカンのエクソシスト』では、除霊シーンで大暴れポルターガイスト現象が置きまくりモノだけでなく人も宙を飛び交う暴れっぷりだ。そんなふうに昨今の悪魔もインフレの波にのまれてサービス精神が旺盛ななか、本作の『エクソシスト:信じる者』は、なかなか初代に忠実にやっている。たとえる中、スマブラSPをプレイしたあとに初代スマブラをプレイするような感じ。よっぽどのファンなら楽しめるだろうが、一般ユーザーにとっては全部載せの最新作をプレイしたあとに初代をプレイすれば物足りなさを感じてしまう。そう、ちょっとした物足りなさを感じてしまったのである。たしかに、健気な子どもが邪悪に変貌していく過程や、悪魔の精神攻撃や、サブリミナル的に差し込まれる悪魔の印影など、初代エクソシストを踏襲しつつ進化した表現もあるものの、昨今のインフレに慣れてしまった身からすれば、もっとやってもらってもいいのではという気もした。よくいえば初代に忠実であり、悪く言えば少し物足りない、そんな悪魔まわりの描写でした。

 そして、個人的に印象に残ったのは、初代エクソシストでの被害者の母であるクリス・マクニールが主人公に語ったことでした。「キリスト教イスラム教、ゾロアスター教から死海文書にまで、古今東西どのような宗教にも悪魔祓いの呪文はある。その本質は、神そのものを信仰することよりも、集まる家族・近所の人・知らない人の人々の繋がりを信じることにある」みたいなことを主人公に語るわけだが、どうもこのフレーズが印象に残っている。作中で教会はエクソシズムの不許可を出し、自分たちでどうにかしなきゃならない状況に陥るわけだが、これまで出会った人々の力を結集してヴィジランテ・エクソシズムを決行する。誓師いを立てる前に道を外れたシスターや教会の神父、アフリカにルーツを持つ呪術師、そして西洋近代医学…。「なんとかしたい」と思う人々が協力してありとあらゆるリソースをぶち込む悪魔祓いシーンは、なかなか面白かった。新しいエクソシストシリーズは三部作らしいので、これを発展させて三部作の最後では、ラスボスの大悪魔に対して、キリスト教イスラム教・ゾロアスター教・仏教・ユダヤ教などの古今東西の宗教とお互いの信徒を信じ合う心で立ち向かう世界平和エンドを頼むからやってほしい。

 そう考えるとサブタイトルであるBelieverというのもなかなか腑に落ちる。悪魔祓いの肝となるのは、やはり「人を信じる心」であったことが強調される。なんなら呪われた子であるキャサリンは牧師の娘であったが、神聖なる教会で悪魔憑きの発作が起き、キリストの血肉であるワインとパンを貪り大暴れする。後半のエクソシズム不許可のシーンも踏まえると、なんだかんだ信仰一本頼みは頼りにならないというメッセージな気もします。また、救われなかった子どもの父親は、「人を信じる心」を持ってないような描かれ方をしていた。序盤の行方不明シーンでも「異教の呪いをやったんだ」という発言やアフリカ呪術師の祈祷に対して「何をやっているんだ」というシーンがあり、そして極み付け抜け駆け!! 「Deceiverたる悪魔に立ち向かうには、Believerにならないといけない」という、これはなかなか今の世の中に刺さる普遍的なメッセージなのではないか? と思った次第です。

 あとは、こういう有名作の最新作は、テーマソングが流れるところでテンションが上がるので良かった。テテンテテンテテンテテンテンレレンテンテテン........

人生初北野武映画である『首』を観た率直な感想

北野武監督最新作『首』西島秀俊、加瀬亮ら総勢15名のキャラクタービジュアル&PV公開(ぴあ) - Yahoo!ニュース

 

 芸人としてのビートたけしは『世界まる見え!テレビ特捜部』で毎週観ていたので子どもの頃から親近感を覚えていたが、北野武の映画作品はこれまで観たことがなかったが「ハードボイルドでバイオレンスなもの」という先入観のみ持っていたので自分に合うかな~と思っていたのだが、最新作は時代劇ということで取っつきやすそうということで見に来ました。結論:取っつきやすいわけではないが、とても面白かったです!!

 今現在において日本史をテーマにしたエンタメ作品や創作作品は数多くあれど、戦国時代は美化されたイメージで語られるきらいが多い。街で「尊敬できる歴史上の人物は誰ですか」と訊いたら5人に1人は戦国武将の名前を答えるだろうし(かなりの偏見)、『戦国無双シリーズ』や『戦国バサラ』などでは(知っている具体例がゲームしかなかった)ヒーローとして美化されている。とはいえ、明治維新まで日本は封建主義の時代であり、彼らはしょせん封建領主に過ぎない。君主から土地を与えられ、その見返りとして軍事的奉仕や奉納をせざるを得ない立場の人間に過ぎない。これまでの大河ドラマや時代劇で光があたってこなかった部分にフォーカスした面白い時代劇だった。

 なかなか痛快で面白かったのは、戦国時代の美化されたイメージをことごとく脱構築している部分である。戦国武将は決してヒーローではなく、欲にまみれた一人間である。天下統一を成し遂げる天下人であっても、しょせんは一般民衆と変わらない欲をもった人間である。三英傑と言われる信長・秀吉・家康の描かれ方もまさにそんな感じである。信長は、暴力で周囲を屈服させる独裁者のように描かれているし、そしてそれが底が見えない不気味さに繋がっているかというとそうでもなく、子どもに跡目を譲るそのへんの小物と結局一緒であると描写される(そしてこれが本能寺へ繋がる)。秀吉は水攻めや中国大返しなどの奇策で知られるが、決して自分で考えたものでなく、部下や協力者にやらせっぱなしの所詮はサルであるし、家康も腹の底が見えないというか周囲に恵まれただけのビビりのようにみえる。「戦国武将なんてその辺の人間と変わらない」というのが時代特有の衆道描写や暴力描写として映画として出力されていて大スクリーンで観るのが楽しい。特に加瀬亮演じる信長はよかったです!!

 そして、この作品全体としての「武士道」の描かれ方も面白い。忠義だの御恩だの信義だののキーワードで語られがちな「武士道」であるけれども、結局はそんなものは存在しない。武将を守るために散っていくモブ兵士が描かれているが、彼らはたぶん武士道精神に則って主君に忠義を果たして死んでいっている。とはいえ、肝心の主君が上記のような描かれ方をしているので、「武士道」なんてものはもともと存在せず、君主が押し付けた主従関係のなかの支配装置のように思えてくる。

 そしていつの世も名もなき一般市民が割を食う、ということをひどく感じた作品でもある。合戦シーンがかなりの迫力で最高!!という感じなのだが、よくよく考えると合戦シーンは無数の屍のうえに成り立っているシーンでもある。ギャグのように描写される大量に出てくる家康の影武者たちのように、安全な本丸から足軽を突撃させろという秀吉のように、人間は生れてから死ぬまですべて遊びだという信長の価値観のように、この時代の一般市民は戦国武将の一存で空しく死んでいく定めというのが伝わってくる作品である。一般市民枠のストーリーラインである茂助の存在も、一般市民も戦国武将と同じ欲を持っているという観点と、そして一般市民は彼らの手のひらの上で踊って散っていくだけということを示すために必要な描写だったのだなあと感じた。

 「しょせん権力者の手のひらのうえの一般市民」と「一人間としての欲をもつ権力者」というのは、いつの世の中も変わらないのだなあと感じつつも、ちゃんとエンタメとして面白いとても楽しい映画であった。

 歴史ものを普段全く見ないせいか、それとも様々なストーリーラインが並行するせいかわからないが、話の繋がりが見えずらいシーンがあったのが玉にきず。あとセリフが聞き取りにくい・・・(笑) コメディシーンをマイナス評価とする声もあるが、北野作品をこれまで観ておらず比較対象がないからか、個人的にはあまり気にならななかった。

救いと容赦がない国民的アニメ映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』

 

 よくわからないが平成生まれのくせに水木しげるの作品が好きだった自分は、図書館にあった鬼太郎や河童の三平、妖怪図鑑などを読み漁っており、夏休みに鬼太郎のアニメが再放送されていたのもよく見ていた。好きな妖怪は、「しろうねり」と「枕返し」。次点で「小豆洗い」。何が言いたいのかというと、そこそこ水木作品好きとしての立場でこの映画を鑑賞したということである。

 『バイオハザード:ヴィレッジ』×『ガン二バル』×『ひぐらしのなく頃に』という感じで、田舎の一族が支配する村でアレコレが起き、それらが鬼太郎の出生に繋がる…という物語であった。最近の鬼太郎のアニメでは猫娘がかわいくなっていたりキャッチーなキャラクターが出てきていたり、子ども向けにチューニングされているのかな~とも思いながら劇場にいったが、子ども視聴の絶対NGの大人ですら目を背けたくなる人間の業を煮詰めた恐ろしい作品になっていた。金曜の仕事終わりに観るもんじゃねえ。

 田舎の村の有力一族の当主が死んだ。東京血液銀行に勤める水木(墓場鬼太郎の1話を読んでいればこのキャラクタ設定でぐっとくる)は、その当主の義理の息子と懇意にしており、当主交代の場にはせ参じるために村を訪れる。そこで起きる殺人事件と謎の男(鬼太郎の父親です)…。さて、この村にはどのような謎が隠されているのか…。という話であるが、隠されている謎がエグい。道理を外れた外法を使い、幽霊族(鬼太郎父母の一族)の血を原料にしたモルヒネを生産し、村を訪れた人を屍人にして生産プロセスに組み込み、そして村人と一族の女子供は自身の支配下においていた当主。そしてさらに恨み辛みから生まれた妖怪ですらも使役しているというウェスカーも顔負けのバケモノであった。なかなかランキング上位に食い込む因習村ではないか。

 この因習村と隠された秘密の描写がなかなかエグみが強く、救いと容赦がない。ともすれば鬼太郎のルーツも揺らぐようなエグ描写が組み込まれていて、「ウっ…」となるシーンが多かった(ワンピース最新話を思い出した)。このようなヘイトを溜めたぶん、スカッとするような展開が待っているかと思いきや、そこはもともと妖怪漫画なだけあった、スカっと具合が足りず、どこか感情が尾を引く映画になっている。

 とはいえ、鬼太郎の父親(生前というのが適切な表現かはわからないが)と水木のキャラクター設定と関係性がバツグンで、楽しんで見ていられる点である。全体を通じたスカッと具合は足りないものの、中盤の戦闘シーンはなかなかカッコいい。そして水木のニヒルな感じもよい。タバコの吸い方もよいので、タバコが吸いたくなった。そして舞台が昭和30年代であるため、水木も戦争帰りである。この設定が終盤の展開に活きるのに加え、因習村の弱者を食いものにする構造と当時の戦争の構造が重なって見えるシーンもあり、なかなか作品全体の奥行が増している(というよりも原作者の水木しげる自身の体験と重ねたようなものだと思う)。

 とどのつまり、鬼太郎の前日譚として申し分のない作品であったが、 ただ、妖怪が全然出てこないのが心残り! この作品を観て家にある水木作品をかき集めたところ、鬼太郎の1・2巻と総員玉砕せよ、そして妖怪百科が出てきたので、楽しもうと思います。そして振り返ってきたらまた観たくなってきた・・・

 

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MCUファン向けエンタメドカ盛りの皮をかぶった武力批判映画かもしれない『マーベルズ』

Higher, Further, Faster. Together.

ひとりではたどり着けない、最強へ

規格外のパワーと不屈の心を兼ね備え、ヒーロー不在の惑星を守るため幅広く宇宙で活動していたキャプテン・マーベル。そんな彼女のある過去を憎み、復讐を企てる謎の敵が出現する。時を同じくして、キャプテン・マーベルと、まだ若い新世代ヒーローのミズ・マーベル、強大なパワーを覚醒させたばかりのモニカ・ランボーの3人が、それぞれのパワーを発動するとお互いが入れ替わってしまうという謎の現象が起こる。原因不明のこの現象に困惑するなか、地球には未曽有の危機が迫り、キャプテン・マーベルはミズ・マーベル、モニカ・ランボーと足並みのそろわないチームを結成することになるが……。

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 英語版・日本語版のいずれのキャッチコピーもビビっと個人的な琴線に触れたMCUシリーズの『マーベルズ』を観た! アメコミ好きだから好き! そうじゃなかったら嫌い! という、アメコミ好きの自分からするとまあ楽しめたのだが、評価が悪いポイントも理解できる、そんな映画であった。

 MCUが好きになったのは、新卒で働きだしたあとのことだった。『アントマン&ワスプ』から参入した珍しい経緯であるが、とはいえMCU映画の公開予定は辛い社会人生活の支えになってくれたし、『アベンジャーズ:エンドゲーム』ではとてつもない感動を味わえた。フェーズ4以降も、いつかエンドゲーム並みの感動が味わえると信じて配信作品を含め欠かさず参照しているわけであるが、気づいたらドラマが配信されたりして、MCU熱は少し下がりつつあるのもの事実。供給過多によるクオリティの悪化や過酷な労働環境など悪い噂を聞こえてくるようになり、「いちばん売れている食べ物がいちばん美味しいわけではない」という言葉のように、いちばん売れている映画フランチャイズはいちばん面白いわけではないような気もしてきた今日この頃である。

 とはいえ、MCUからアメコミの世界を好きになったキッカケをくれたことと、おそらく無意識のコンコルド効果から、自分はMCU作品に下駄をはかせて評価をしがち。その観点からいうと、『マーベルズ』、とてもワクワクして面白かったです。面白い理由は、「クロスオーバーをしたから」。あるいは、それを渇望していたから、である。ドラマシリーズのキャラクターと映画シリーズのキャラクターと絡んでいるだけで面白く、さらに物語にこれまでの宇宙系の作品で描かれてきたジャンプポイントやクリー=スクラル戦争も絡んでくるわけで、アメコミ好き冥利に尽きる作品であった。エンドゲーム以降の作品で配信作品とがっつり絡んだのは『ドクターストレンジ:マルチバースオブマッドネス』くらいであり、ファンが渇望していたクロスオーバーと世界観の活用はここに極まれりということで、細かいことを気にせなければ楽しめたエンタメ作品だったと思います。

 MCUという文脈でみるとたいへん楽しめた作品なのだが、一般洋画あるいはキャプテン・マーベルシリーズという文脈でみると、たいへん「?」が残る作品であった。この作品が目指していたことは、最強のスーパーヒーロー、キャプテン・マーベルことキャロル・ダンヴァースの脱神話化、ということだろう。キャロルの大ファンであるカマラ・カーンと、キャプテン・マーベルになる以前からの付き合いがあるモニカ・ランボー、それぞれの視点からキャロルを描くことで、ヒーローとしての自分と自分自身の間での葛藤なり成長なりを描こうとしていたと思うのだが、ヒジョーに限られたシーンしかそのような様子はない。助からない命を見捨てるキャロルへのちょっと失望したようなカマラの表情と、3人で草原の星で話し合うシーンくらいしかない。もっとうまくできたんじゃないのかな~とは思う。

 あとは、キャプテン・マーベルというスーパーヒーローの描き方にビックリした。今作でのキャプテン・マーベル、最強どころか最悪ではないか? 自らがクリー帝国を統治するAIシステムのスプリーム・インテリジェンスを破壊したことにより、クリー帝国は空気と海を失い滅亡の危機に瀕している。仲間に対しては失望されたくないと、その事実から目を背ける(結果論かもしれないが、簡単に解決できたはずなのに、解決しようとすらしない)。自分自身が庇護をしていたはずのスクラル人に対しても、自分が介入したとにより死者を出してしまい、「何もしないでくれ」と三行半を突き付けられる。そしてこれらの行為の帰結として、家族同然の存在であるモニカを失ってしまう。

 この映画だけをみると、キャロルは何も救えず、事態を悪化させただけだった。「スーパーパワーという武力では何も解決できない」という痛烈な政治批判に思えるほど、何も進展せず何も解決しないスーパーヒーロー映画だったなあと思う。クリー帝国とスクラル人との戦争が、なまじ現代の世界情勢に重なるからこそ、とてもそう思った。クリー帝国はスクラル人から資源や水を奪っていくが、それはキャロルが彼らの統治機構を奪ったからである。また、古代からの争いに終止符を打とうしていた当事者に対して介入することによって事態を悪化させるのは、さながらキャプテン・帝国主義者である。パクス・アメリカーナが終焉の時代を迎えつつあるからこそ、これまでのアメリカの武力介入に対する内省的な映画がMCUからも出てきたのかも、しれない。

 何はともあれ、ヤングアベンジャーズ楽しみ!!!

 

 

 

 

ネッチョリしたスーパー特撮主権在民映画『ゴジラ-1.0』

ゴジラ -1.0 ドルビーシネマにて鑑賞

 特撮大好き少年として過ごして来たワタクシであるが、ゴジラシリーズは、『ゴジラ2000 ミレニアム』とローランドエメリッヒ版の『GODZILLA』しか観たことないという異端少年であった。ただ幼いながらその姿は鮮明に脳裏に焼き付いていたようで、フリーマーケットだか近所のデパートで買ったゴジラのソフビを大事に抱きかかえるくらいには好きだった。そんな少年は大人になったが、モンスターバースと『シン・ゴジラ』はしっかりと劇場で鑑賞し、『ゴジラSP』もしっかりと見届け、最近はゴジラショップで購入した手ぬぐいをポケットに入れて仕事に行くくらいのゴジラ好きのものだという前提で読んでほしい『ゴジラ -1.0』の感想文である。

タイトルの「−1.0」の読みは「マイナスワン」。舞台は戦後の日本。戦争によって焦土と化し、なにもかもを失い文字通り「無(ゼロ)」になったこの国に、追い打ちをかけるように突如ゴジラが出現する。ゴジラはその圧倒的な力で日本を「負(マイナス)」へと叩き落とす。戦争を生き延びた名もなき人々は、ゴジラに対して生きて抗う術を探っていく。

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今回のゴジラ、めっちゃ怖い!!

 というのが全編を通じての感想であり、そしてこの映画への誉め言葉である。今回のゴジラは、最初の10分で人間の殺戮を開始するというシリーズ稀にみるやる気を見せつけてくる。これまではゴジラの登場まで入念な演出を重ねてきた作品が多かったが、今回はもったいぶらずいきなり鳴き声と全身がカットイン!! 神木隆之介演じる主人公にトラウマと観客に興奮を残してプロローグが終了する。ドルビーシネマで鑑賞してよかった~と思った瞬間であった。

 何が怖いって、眼がこわい。何を考えているのかわからないのだけれど、こちらに対して敵意以上の何かが向けられているようなそんな気がします。そんなゴジラは銀座で大暴れをするわけだが、このシーケンスがたまらない。品川方面から上陸したゴジラは、築地・銀座を瓦礫にかえ、日比谷と霞が関を放射熱戦で焼き野原にする。やはり国会議事堂に向かって放射熱戦を吐きキノコ雲を発生させるのはいささか象徴的な気もするが、残念ながらこのような画をモンスターバースではなく邦画で観れた興奮が上回ってしまった。

 この銀座襲撃のシーケンスだけでも劇場鑑賞代の元が取れるし、他のゴジラシーンを含めるとお釣りがくるくらいだ、と思う。敗戦直後なので海で戦うシーンが多いものの、決して迫力がないわけではなく、さながら『ゴジラvsキング』である。立ち泳ぎしているゴジラも一瞬うつるので見逃さないのでほしい。個人的には農村を歩くゴジラはちょっとおもしろかった。

何を描きたかったのか

 正直なところ敗戦直後という舞台設定は、山崎貴の旧日本軍の軍艦や戦闘機を出したいという趣味先行であると思うし(そのおかげでこれまでのノウハウが遺憾なく発揮されて最高の映像表現にはなっているのだが)、かつゴジラはそれ自体を描くことに意味があるので意味のためにゴジラが描かれたわけではないと思う。

 とはいえ、「過去のトラウマからの脱却」というのを超スケール(と長い人間ドラマ)で描いている作品なんだろう。神木隆之介演じる主人公はこれまで逃げてきた自分を脱却し、吉岡秀隆演じる学者は軍隊で兵士の死を前提とした兵器を開発したトラウマを脱却し、佐々木蔵之介演じる船長は……ネッチョリした演技すぎてよくわからなかったものの、たぶん「生き残ってしまった」という悔恨の念を抱いているんだろうきっと。

 そして戦争を生き延びた名もなき人々も、大日本帝国からの脱却ということで、「主権在民」パワーでゴジラを撃滅していく。最後の海に沈んでいくゴジラに敬礼するシーンは、なんか旧日本軍の軍隊の幽霊を敬礼して成仏させる自衛隊の怖い話を思い出したけれど、過去と決別したシーンなんだろうなあと思ったわけである。

とはいえ!!

 とはいえ、全体的にネッチョリしている映画でもあるのは確かだ。神木くんが感情的な仰々しい演技なのは、傷痍兵ということで(まだ)理解できる。問題はそのテンションにみんなが合わせているため、みんなネッチョリしていることがきつい。まあ敗戦直後なのでみんな心にトラウマを抱えているんだろうけど、ネッチョリしている。ネッチョリしている以外の表現が思いつかない。あと、作戦とか口で説明しすぎ。特に東京湾ゴジラを足止めする際の、学者と船長の会話が説明口調できつかった。大正時代から生き延びた炭次郎か?

 このネッチョリ感はたぶん大人には合わないんだろうけど、誰もが楽しめる大衆娯楽作品としてのチューニングなんだとは理解する。そのチューニングのおかげで、あまり難しすぎないのはたしかだ。最後のフロンガスの加圧減圧のよく考えると「?」な作品も、作戦室でも説明と図解でわかりやすくなっている。

 思うに、このネッチョリ感は、今を生きる子どもたちにもこの作品が届くように仕上げたがゆえなのだろう。これから大人になっていく特撮キッズにゴジラとメッセージを伝えるために作品を仕上げた、と考えると、きっちりとした仕事だった感じたポンタヌフであった。そして所々で出てくる「誰かが貧乏くじを引かないといけないんだよ!」というセリフは監督の心の声のように感じた(笑)

 ただし飲み屋で「なんで嫁にしないんだよ!!」というシーンと夜の家で大声で神木隆之介浜辺美波が叫びあうシーンはちょっとキツカッた。本作品の最後をみると、浜辺美波ゴジラ細胞の人造人間になってしまったようなので、続編はハードSFでよろしくお願いいたします!!

 

00年代のネット民が感涙を流す映画『リゾートバイト』を観た

00年代のネット民が感涙を流す映画『リゾートバイト』を観た

 2chカルチャーの変遷については、年代を追っていくと面白いんじゃないかと思う。90年代は完全なアングラカルチャーとして成長し、00年代にはまとめブログやニコニコ動画、おもしろフラッシュ倉庫などで侵食されていき、電車男で火がつき、なんか10年代にはTwitterとかのSNSの拡大でまあだいぶポピュラーになったような希ガス。当方、小学生でPCを触ってそのカルチャーに触れてしまったので、そのへんの文脈や有名コピペなどはだいたい知っているつもりだし、一時期はオカルト板に入り浸るゲキヤバ中学生であった。 そんな自分であるが、リゾートバイトのコピペは読んだことがなかった。鮫島事件やきさらぎ駅の映画化は知っていたが「コピペで読んだことあるしいいや」とスルーしていた立場としたがどうやら良い評判が聞こえてくるので、今回の『リゾートバイト』を観るに至ったわけである。

 観客の感情を揺さぶるのが良い映画なのであれば、この映画は素晴らしい映画である!  ホラー映画が始まったかと思いきや、キラキラした青春アニメが始まったかと思いきや(なかなかこれがおもろい、マジで君の名はのオープニングっぽいところだった)、やっぱりしっかりしたホラーなんだなあと思ったら、ネット民が良く知る“アイツ”が出現し「!?」となり、そこからはやはりこの作品は新海誠だ!となり、ひとしきりコメディシーケンスが続いたのち、やっぱりホラー映画だったんだなあ・・・と思って劇場を去っていく、そんな作品である。

伊原六花が恐怖に巻き込まれていく様子が 『リゾートバイト』ポスター&予告編公開|Real Sound|リアルサウンド 映画部

 

 結論としては、とても楽しめた?作品である。なんか感情が各方面に揺さぶられすぎて、つまらないのか面白かったかの価値判断が未だできない、というのが正しい言い方かもしれない。純正Jホラーを期待していくと拍子抜けをするだろうが、決してふざけているわけではない作品だということは最後まで観ればわかると思う。うん、楽しかったけどよくわからない映画、ということにしよう。

 ネットに転がっている有名な都市伝説コピペを単純に映像化するのではなく、いや単純にキャスト陣の魅力もあって単純な映像化でもそれはそれで楽しめたと思うけれど、「よくこの発想に至ったな」と思わせられる発想と脚本は素直に素晴らしい。都市伝説のクロスオーバーどころではない魔改造。映画を観たあとに、映画の元になったコピペを観たとき、中盤からかなり異なっており笑ってしまった。でも全体を通した感想としては、たしかにこのコピペの映像化といえる。

 あとは後半の伊原六花のビジュアルが完成されていてよかった。元欅坂46が好きだったケヤカスとしては、不協和音以降の平手を思い出すビジュアルで、おお・・・となったのを思い出す。その他の主要キャストも全員魅力的だったのも、この作品がなんだかんだ評価されている要因であろう。

 さくっと気兼ねなく観れる良い一作だった。ぜひとも「妖怪退治しているけどなんか質問ある?」のコピペも映像化してほしいです。これ、定期的に読みたくなる大好きなコピペなんです・・・。