某少年探偵アニメへのアンチテーゼ「真実はいつも一つじゃない!」『落下の解剖学』

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 私はミーハーなので、アカデミー作品賞にノミネートされた作品は基本的に観たくなってしまう。その一方で、画面が派手なジャンルの映画(わかりやすく言うとブロックバスター映画)ではなければ観てる最中に身体がモゾモゾしてじっとしていらないという特性を持つ。2024年のアカデミー作品賞にノミネートされた作品のなかで、これはポスターに唯一出血していたので、コレはいける!!と思い観に行ったわけです。

 集落から離れた雪山のロッジで暮らす3人家族。ある日、夫が頭から血を流して死んでいるのが発見される。そこに居合わせたのは視覚障害者である息子のみ。状況証拠からして疑われる作家の妻。身の潔白を主張するのもも、ついには検察から起訴されてしまう。どうにかして妻は身の潔白を証明できるのか。隠された真実は何なのか。というような物語でした。

 映画冒頭からもったいぶらず夫が死亡するので、「おッもったいぶらない展開で羽振りいいじゃん」と思ったのも束の間、しばらくは登場人物の会話シーン(というかほぼすべてのシーンが会話シーンであるけれど)が続いていく。正直このあたりでは「実際のところ何が起きたんだろう...?」という気持ちよりも若干退屈さを感じてしまいまして、ここで15分程度うたた寝。ところが中盤くらいの裁判がはじまるあたりからメチャクチャ面白くなっていき、終盤のテープレコーダーのシーン以降は目を見張るほどの面白さでした。セリフだけでここまで面白くできるとは。2時間半なんて長いよ!!と思ってしまったものの、なんか映画全体を俯瞰して考えると、この長さは必要だったのかもなと思えた。

 一言で言うと、某少年探偵の「真実はいつもひとつ!」というキメ台詞(まあ原作ではいちども確認されていないという話は承知しているが)に対する、激烈なアンチテーゼを突き付けた作品である。「真実はいつもひとつとは限らない!」とでも言うべきだろうか。あるいは、「真実と事実は違う」みたいな言い方もできそう。兎にも角にも、唯一の「真実」なんてものは存在しない、ということを描いた作品である。

 驚くべきことに、この作品では、夫の死の真相は描かれない。劇中の裁判官や傍聴人のように、現場検証の様子や裁判の様子から、観客もその真相を予想するほかない。裁判を通じて、夫の死だけではなく、夫婦関係についても明かされていく。終盤の口論のシーンはメチャクチャきつい(笑) いちばくよく知っている他人である配偶者でさえ、ここまでモノのの見方が違うとなると、すごく絶望すると思う。口論のシーンは本当にお互いに話が通じておらず、X上での不毛な議論を観ているようで悲しい。お互いの夫婦生活へのモノの見方ですらこれなのだから、人類は到底分かり合えないというより深い絶望へ誘われるくらいの名喧嘩シーンであった。 妻「笑ってない私を好きになったんでしょ。いつも笑ってるバカ女が良かったの?」夫「君は本当に愚かだな!!」 というやり取りの後に、夫の部屋に出会った当時の妻の笑顔の写真が飾られているシーンが観ててマジでつらかったです。最も距離の近い人ですら世界の見方が違う、ということを示した良きシーンだと感じました。

 とまあその口論が証拠として流されるわけですが、そこで妻が言う「この会話が私たちの全てではない」というセリフもそれもまたそうだなあと思った次第。そして弁護士だが誰かが言った「作家が自分の小説のように夫を殺したというストーリーのほうが面白い」だけというのもそれもまたそうだなあと思った次第。それを象徴するかのように、上記のセンセーショナルな口論が証拠として提出された公判には多くの傍聴人が駆けつけていたが、最後の息子の供述には傍聴人はほとんどいなかった。結局のところ、多くの人は、自分がみたい面白いストーリーを見出そうとするだけ、というニュースやSNS社会における問題点も指摘されているように思う。

 結局のところ、裁判なんてものも、お互いの世界の見方の押し付け合いであるし、映画を観る観客自身も、自分の面白いようにストーリーラインを解釈する。たとえば「弁護士と妻がデキていて、夫を排除して裁判にまで勝った」みたいな下衆の勘繰りもできるような描写もされているし、息子が唯一残された肉親との関係性を考えて最後の証言をした、みたいなモノの見方もできる。

 「真実はいつもひとつとは限らない!」「真実は人の数だけ存在する!」という当たり前であるが認識から抜け落ちがちなことを、ポストトゥルース社会に活きる我々に教えてくれる名作であると思ったポンタヌフであったものの、画面が派手ではない長尺映画を観るのはやはりしんどいとも思ったポンタヌフであった。