殺人鬼に感情移入をする新感覚のスラッシャー映画『サンクスギビング』

Thanksgiving (2023) Hollywood Movie - Review, Cast, & Story

 

 「Thanksgiving Day」(感謝祭)という祝日は、日本にとってほとんど馴染みがないものであるが、「ブラックフライデー」という言葉は、結構な人が耳にしたことがあるのではないだろうか。日本においては11月後半に諸々セールで値引きされるセールか...くらいだろうが、アメリカにおいては感謝祭の翌日の金曜日を「ブラックフライデー」と呼ばれ、この日には多くの小売店でセールが実施される日である。そんなサンクスギビングデイに起きた惨劇を描くのが、イーライ・ロス監督の最新ホラー映画『サンクスギビング』である。

 イーライ・ロス監督の作品として『グリーン・インフェルノ』を観てゴア表現に良い意味でウオオオオオと感じた思い出と映倫でR18+に指定されたことを踏まえて結構身構えて観に行ったのだが、これが意外にも全編に笑いが散りばめられておりゴア表現もそこまで激しすぎるわけでもなく殺人鬼の復讐譚としても面白い、年末を飾るにふさわしいエンタメ映画として仕上がっておりました。

 この映画の面白い点として、感情移入先が通常とは異なることがあります。だいたいのホラー映画観客は主人公側に感情移入をしつつ恐怖を共有しながら観ることになるのですが、この映画は殺人鬼側に感情移入をすることができるという、珍しいタイプのスラッシャームービーでした。映画の冒頭で、ブラックフライデーセールに押し寄せた民衆によって、モールにて群衆事故という表現じゃ生ぬるい惨劇がはじまってしまう。「オイオイ殺人鬼より怖えよ!!」と思いながら、踏みつけられたりカートに挟まれたりして死んでいく人々を観ていた...資本主義大国のアメリカって今こんなんなんでしょうか...。今回の殺人鬼であるジョン・カーヴァーは、この惨劇に加担した住民たちを殺していく、復讐に身を燃やした哀しき殺人鬼なのでした。そんなこんなでショッピングモールでの惨劇を冒頭30分で見せつけられてしまったあとなので、殺人鬼側に肩入れをして映画を観てしまうというそんな造りでした。

 主人公を初めとする仲良しグループは、スクールカーストの頂点という感じで、まあ周りからはイヤなやつだと思われてそうな感じがする。そして主人公の父親は、その惨劇モールの経営者であり、市長や保安官とも懇意な地元の名家である。冒頭のショッピングモールでの惨劇も、主人公一派がコネを使って先に開店前に店内に入ったのが引き金であったこともあり、主人公たちが追い詰められていく様を、「ざまあ!!」という新しい視点で楽しみながら観ることができた。そしてキルの仕方もウィットに富んでいて楽しめる。文字通りの「半額大出血セール」や「オーブンで焼き殺して七面鳥にする」とか「トランポリン殺し」とか、惜しみないアイデアで復讐をしていく殺人のバーゲンセールがここにある。

 そんなこんなでエンタメとしても面白い本作ですが、「感謝祭」というハレの日に殺人をすることであの日のショッピングモールでの惨劇を忘れ去られないようにしたい、という殺人鬼の動機はそのまま現実世界に重なるところがあるような気もします。物語の舞台は、イギリスから北米への入職者であるピルグリムファーザーズが降り立った街であり、入職者にとっての感謝祭はネイティブアメリカンにとっての死の歴史の始まりなわけであり、しっかりそこは作中でも少しだけ触れられていた。誰かにとっての嬉しい出来事は誰かにとっての悲しい出来事だという再認識をしました。

 ここから猛烈なネタバレ含む。そして、「殺人鬼」は誰なのか? という謎も、しっかりと(というよりもかなり丁寧に)伏線が張られていて考えていくのが面白い。丁寧な伏線のおかげで犯人自体のサプライズはあまり無かったのだが、携帯電話でのビデオ通とか移動のスピードとかを踏まえると、もう1人犯人いませんか? と思ったんですが...。斧を野球のバットみたいに回していたので、もうひとりの犯人がいるなら彼な気がするが、その真相が続編で語られることを期待したい。

 

 

中高生視聴必至の教訓映画『トーク・トゥー・ミー/Talk to me』

Prime Video:Talk To Me

 

 予告や宣伝の仕方をみていると、バカなティーンエイジャーが「90秒憑依チャレンジ」をしてその軽率な行為の報いを受ける...というような何か既視感があるようなホラー作品かと思いきや、決してそんなことはなかった。テンポよく非常に観やすい展開で進んでいきながらも、描かれているテーマにもしっかりと奥行きがある非常に良質なホラーであった。しかも、約90分と映画としてちょうど観やすい長さでありました。

 母を亡くした主人公のミアは、母親の二回忌をきっかけに、高校の同級生の間で話題の「降霊術チャレンジ」に参加したいと考える。親友のジェイドとその弟ライリー、ジェイドの彼氏のダニエルとともに、降霊術パーティーに参加するミアたち。フェイクではなく本当の霊と交信できるその降霊術チャレンジの虜になっていくなか、親友の弟ライリーがミアの母親が憑依してしまって......というお話。

 話の根幹にあるのが、若者が「孤独」である。主人公のミアは母親を自殺で失ってしまった事実と向き合うことができず、唯一の肉親である父親ともギクシャクしており、親友のジェイドの家に入り浸っており、ジェイドとの関係性に半ば依存してしまっている。「降霊術チャレンジ」が行われるパーティーに参加しても、その雰囲気にはまったく溶け込めていない。「べたべたと距離を詰めてくるから嫌いなんだよね」と評されるミアの他人への接し方は、きっと誰とも心を許して接することができなかったことを伺わせる。そんなミアが、あるいはミアと、作中でお互いに心を許して接していたのがジェイドの弟のライリーである。昔からの親友はグレてしまい、年の近い姉は彼氏に夢中で相手をしてくれず、両親は仕事や家事で多忙なようでコミュニケーションがうまくいっていない。弟のライリーも孤独を感じながら暮らしている。この2人が今回の映画では、霊に獲りつかれてしまう。

 今作に出てくる呪物である「手」は、向き合いたくない現実によって生じてしまった心の不安や孤独から逃避するために使われる。現実世界ではそれがアルコールやドラッグやオーバードーズなどになるんだろうし、もう少しマイルドなものだとSNSで承認欲求を満たす行為になるんだろう。それも行き過ぎるとと醤油をなめたり冷蔵庫に入ったりして人生が終わるし、あるいはそこまでにならないまでもSNS上の使い方を誤ってしまえば取り返しのつかないトラブルになりうることはあるよね。そういった不安や孤独を抱えているけど上手くそれを吐き出すことができない、だけど誰かと繋がりたい気持ちも抱えている若者たちというのが、誰かと交信するための「手」と「Talk to me」という呪物と呪文に還元されている。悩みはしっかり相談することが大事です、ということで中高大学生に見せたいホラー映画ナンバーワンといっても過言ではないのではないかと思う。道徳の時間にぜひ体育館で放送してほしい。

 本編中で霊に憑りつかれてしまったライリーとミアだが、それぞれの迎える結末は異なる。ライリーは助かり、ミアは助からない。その違いは何かというと、本音を言える相手がそばにいるかどうかである。ライリーは自分の抱える不安や不満を正直に言うことのできる家族や友人がいた(姉に「彼氏のペニスにしか興味がないんだろ!!」と言ったタイミングは最低だけど)。母親はミアに対する病院での態度を謝罪したように、しっかり自分の過ちを認められる家庭だったのだろう。そして、初めて参加した降霊パーティーのあとのようなに、ミアもライリーにとってのその一人だったというのはまあなんとも後味が悪い。そしてミアは、本音を言える相手がそばにおらず、喪った母親の影ばかりを追いかけていた。ライリーからは「僕たちが家族だよ」と言われていたのにも関わらず、ライリーよりもその身体に降霊した母親の霊を優先してしまう。そんなこんなでミアへの呪いが増幅していき、悪霊の唆しによって最悪の結末を迎えてしまう様子は、どこかSNSのエコーチェンバー現象で激ヤバ思想や陰謀論が増幅していく過程とも重なってみえました。SNSに登録するうえで視聴必須のホラー作品である。

 そしてやはりテンポ感と長すぎないのが非常によい。Youtube出身の監督だからにのかはわからないが、ずんずん物語が進んでいく。霊のビジュアルも、おそらく無念のままに死んで成仏できない浮遊霊や自縛霊が降霊されていくので(西洋に同じような概念はあるのか?)、溺死したり縊死したりしたであろう霊も出てくる。そして最後の展開とオチを踏まえた後味の悪さは、これぞホラーという感じでサイコーである。Talk to meのおかげでサイコーのクリスマス週末を迎えることができたポンタヌフであった。

 

 

脇役は決して主役になれない、ポケモンSV「ゼロの秘宝」への批判

ふるいちオンライン - 【オリジナル特典付き】ポケットモンスター バイオレット+ゼロの秘宝

 

 久方振りにポケットモンスターにハマり直したのが第9世代の『ポケットモンスター スカーレット・ヴァイオレット』であった。当方は『バイオレット』を購入しプレイしていた。

 

タイトルを見るたびにワンピースのこのを思い出してしまう

 ポケモンプレイヤーのなかには対戦ガチ勢や色違いガチ勢などもいるわけであるが、当方は対戦よりもシナリオや世界観がとても気に入っており、ゲームプレイとしては図鑑埋めを目標にやっているいわゆるエンジョイ勢である。前作の『ソード・シールド』は本編は図鑑コンプリートをしたものの、DLCの図鑑は埋めずに気づいたらメルカリで売ってしまっていた次第である。

 今回はその雪辱を晴らすぞと意気揚々と購入したのが、『スカーレット・バイオレット』DLCである『ゼロの秘宝』である。前編である「碧の仮面」と後編である「藍の円盤」をクリアしたので、感想文を書き記しておく。なお、これを書いている時点でのプレイ時間はすべて合計して80時間くらいで、バイオレットでは手に入らない2体(タケルライコとウガツホムラ)で図鑑コンプリートまで進めた。誰か交換してください......。と書いていたらTwitterの優しいひとが交換してくれた。サンキュー!!

 さて、前作のDLCである「鎧の孤島」と「冠の雪原」には、新規の伝説ポケモンであるウーラオスとバドレックスを軸にシナリオが展開していた。また、本編で登場したキャラクターや世界観に関連するような描写もあり、当然ながら対戦環境を一変させるための新規ポケモンのシリーズ導入という側面もありながら、エンジョイ勢もじっくり楽しめる造りとなっていた(もはや遠い記憶ですが)。一方で、今回のDLCは『スカーレット・バイオレット』本編でのシリーズの見直しを前提としている。すなわち、ゲームシステムの「オープンワールド化」であり、そのためにシナリオも学園生活を軸としたものに変更された。そのため、今回のDLCにおいて、前半の「碧の仮面」ではキタカミの里へ林間学校へ参加するという設定となり、後半の「藍の円盤」ではブルーベリー学園へ交換留学へ行く、という本編での設定を前提としたものになっている。

 

前編「碧の仮面」:民間伝承とポケモン

 前編の「碧の仮面」は、主人公がキタカミの里への林間学校へ参加することから物語が始まる。スペインをモデルとした本編の舞台であるパルデア地方と異なり、日本の田舎を舞台としたフィールドとなっており、かなりの新鮮味を感じる。配信時期が9月であったことと日本の田舎というフィールドも相まって、個人的にはポケモン版「ぼくのなつやすみ」を想起しました。こんな世界だったら田舎への帰省もめちゃくちゃ楽しいんだろうなあ...と思います。

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 新規に登場するポケモンも、このような世界観を意識したポケモンたちばかりで、どこか「和」の雰囲気がただよっている。住民とポケモンの共生状況も伺える描写も多く、世界観の拡張に成功している。個人的にはダーテングキュウコンヨマワルなど、日本の妖怪モチーフのポケモンが追加されているのが好き。そして新しくこのDLCのためにデザインされたポケモンも、ヤバソチャやガチグマなど、「和」のコンセプトを見て取れる。桃太郎と鬼をモチーフにした、伝説のポケモンたちも況やである。

 そして肝心のプロットは、里に伝わる民間伝承であるともっこ伝説を、里でできた友人であるゼイユとスグリと紐解いていく...というものである。キーポケモンであるオーガボンを軸に据えながら、新しいフィールドと深堀していきながら、本編のテラスタル要素を絡めていくというシナリオになっている。

 「碧の仮面」は、目新しいフィールド設定でプレイヤーを惹きつけ、さらにそのフィールドを深堀しながら本編要素への伏線も張っていくというストーリー展開であり、さらに新キャラクターであるゼイユとスグリの関係性によって後編の興味も引き立たせるという、なかなかというよりもとても楽しめるものになっている。

そして後編の「藍の円盤」は...

 その一方で、後編の「藍の円盤」は、厳しい評価を下さざるを得ないのが正直な感想だ。新しくスカーレット・バイオレット環境に新しいポケモンを導入することを優先したDLCのように思える。

 「藍の円盤」は、イッシュ地方にあるブルーベリー学園へ交換留学をしにいくことから物語は始まる。ブルーベリー学園は「碧の仮面」で出会ったゼイユとスグリの通う学校である。前編での経験をもとに強さを追い求めるようになったスグリは、ブルーベリー学園のリーグ部のチャンピオンとして君臨するようになった。交換留学生としての強さを見出された主人公は、リーグ部に所属してチャンピオンとなったスグリに挑む...という物語である。これ以上でもこれ以下でもなく、単純に四天王と言われる強いキャラクターと対戦し、そしてスグリと対戦すれば物語は終わる。 その後は取ってつけたようなパルデアの大穴でのイベントが発生し、取ってつけたように伝説のポケモンであるテラパゴスが出てきてエンドロール...。え、これで終わり? というのがプレイ後の感想である。単純に順を追って敵トレーナーを撃破していくのは、すでに何回も本編シリーズでやってきたことである。今回の4人という少ない人数であれば、まあ単調な作業ゲー感はぬぐえなくなってしまう。ゲームシステムやデザインが一新されていればまた新しい気持ちで楽しめるとも思うが、バトルスタイルがダブルバトル固定になっただけ...。ゲームシステムの面でも、シナリオの面でも、前編ほどの新鮮味を感じることはできず、単にプレイしただけ、というのが全体的な後編全体の感想だ。

 そしてフィールドとシナリオにも、それぞれ文句を言っておこう。

 まずフィールドは、先ほども述べたとおりブルーベリー学園が舞台である。ブルーベリー学園は海底の資源開発プラントに併設するかたちで建築されており、外界とは断絶した環境である。そんななかでどのようにポケモンが出てくるかというと、人工的にポケモンの生育環境を再現した「テラリウムドーム」が舞台となる。「テラリウムドーム」には、草原・山・海岸・雪山の環境を模した4つのフィールドに分かれており、それぞれでポケモンを飼育している。それらのポケモンは、BP支援をすることによって御三家がフィールドに追加されることからもわかるように、学園側によって外部から連れてこられ、このテラリウムドーム環境に適応させていることがわかる。また、各地方のリージョンフォームのポケモンが登場したり、化石ポケモンであるタテトプス・ズガイトスが野生で登場したり、古代シンオウ地方でしか出てこないはずのヒスイのすがたのポケモンが登場したりする。つまり、生態系を人工的に管理しているわりには、なかなかガバガバな管理をしているような気もする。学園の生命倫理はどうなっているんだ?

 ポケモンシリーズは、これまでも二項対立的なテーマを描いてきたシリーズでもある。そしてブルーベリー学園に存在する「テラリウムドーム」は、「飼育vs野生」という二項対立的なテーマにもなりうるし、ひいては「自由vs管理」というテーマまで拡大することができる格好の題材となる舞台装置だと思った。ところが、本作ではフィールドは単純に新しいポケモンが出てくる空間としてのみ提示され、さらにはエンドロール後には「パルデアの大穴の奥地のクリスタルを持ってきたらポケモンに影響しました!」というさらに倫理観ガバガバムーブを見せてくるので、モヤモヤする。そして伝説のポケモンであるテラパゴスも、本編新要素であるテラスタルパラドックスポケモンに強く関わるにも関わらず、オマケのような扱いを受けている。プレイヤーにとって、史上最も関りの薄い伝説のポケモンとなった。さいわいアニメでは重用されているので、そっちをみて脳内補完することにします...マルチ展開万歳。ゲームにおいては、よくわからないだけで、テラスタイプ:ステラを導入するために生まれたポケモンという感じ。

 また、シナリオについても、「所詮脇役は脇役のままだ」という痛烈なメッセージが込められている(ように感じた)。前編にてスグリは主人公の強さとあこがれていた伝承上のポケモンであるオーガボンを従える力をみて(まあゲームの主人公だからなんですが)、強さへの憧れを抱く。自分を変えたいという想いで、ブルーベリー学園のチャンピオンまで上り詰める。ただし、ひたむきに強さのみを求めるその姿勢は、リーグ部のほかの四天王との間に不協和音を響かせてしまう。そしてそこに現れた交換留学生としての主人公に、チャンピオンの座を奪われてしまい、そしてそこにかけよってくれる仲間はいない。パルデアの大穴の調査においても、スグリは伝説のポケモンを捕まえて強くなりたいという一新のみにおいて随行する。そしてスグリの行動(と同行したテラスタル大好き教員)によって、テラパゴスは暴走してしまう...。またしても伝説のポケモンを主人公に横取りされるスグリ、エンディングでは自分は脇役であることを自覚して、主役の隣にいる友人であることを選ぶ...。む、胸くそだ......。

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 本編では「スター団」のエピソードを通じて、学園生活の仲間の大切さをお互いに想い合うという視点で描いたのとは対照的に、DLCでは学園生活の仲間の大切さを「孤立」という真逆の観点から描いている。さらにブルーベリー学園には、明確な教育者が生徒の関係性に介入しておらず、フィールドの生命倫理も相まって、なかなか学園への不信感が募らざるを得ない。オレンジ・グレープアカデミーの素晴らしさが際立つ。

 「脇役は決して主役になれない」というこのDLC全体を通じたメッセージを、本編クリア後に学園を休学したスグリの姿をみて思わざるをえない。沢山の子どもたちがプレイするポケットモンスターという作品で、「身の程を知れ」というメッセージを発していいのか?と思ったポンタヌフであった。

 DLC続編があって救われることを祈ります。

権威主義を打倒せよ!!な『ウィッシュ』を観ました

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 ディズニー100周年記念作品である『ウィッシュ』を観てきた。まさに“““”ディズニー100周年記念作品“”“”という感じであった。結論からいえば、フツーに涙を流してしまったのでまあ満足である。

 ディズニー・アニメーションに関わる思い出は、きっと誰しもが持っている。そのため、同時上映される短編『ワンス・アポン・ア・スタジオ -100年の思い出-』のほうが感動したかも。エンターテインメント界の巨人としてこれまで培ってきたキャラクターがこれでもかと飛び出して、100年間で培われたIPの力をまじまじと見せつけてくる。名前の分かるキャラクターもいれば、「あ~名前は知らないけど見たことあるな~」とか「子どものころ見てたことあるな~」みたいな感じのキャラクターもいる。さらにこれに加えてピクサー・マーベルスタジオ・ルーカスフィルム21世紀フォックスなどの権利もあるので驚きである。ある意味最強の企業である。こういうキャラクターがたくさん集まりクロスオーバーする系に弱いので(夏休みにジャンプアニメのキャラクターがコラボするみたいな)、めっちゃ面白かったです!!

 さて本編の話。人々は18歳になると「願い」を王様に差し出す国ロサス。王様は差し出された「願い」を厳重に管理し、みなの願いを叶えていく。人々は王を信じて自らの国が願いの叶う魔法の王国であることを信じて疑わない。ある日、主人公のアーシャは、王の真実を知ってしまう。王は、自分にとって都合の良い「願い」しか叶えることはせず、都合の悪い「願い」は一生叶うことはないことを知る。真実を知ったアーシャは、「みんなの願いをかなえたい」と星に願いを託す。そんな願いに惹かれて夜空からスターが舞い降りる。スターの持つ魔法の力によって、アーシャは王に託されたみんなの「願い」を解放するために奮闘する...という物語である。

 「願い」を差し出した人々は、自分がかつて何を望んでいたかも忘れてしまう。そして自分の本当の「願い」が何であったかを知ることすら恐れてしまう。そして定期的な願いを叶えるイベントによって、マグニフィコ王は国民からの名声と指示を強固なものにしている。ある一定の権力者が権威的な社会システムを構築して人々を支配していく構図は、まぎれもなく現実世界に通底するものであり、2023年の今現在の現実世界でも私たちが目の当たりにしていることではないだろうか。そしてそんなマジカル管理国家ロサスに介入するのは、外部からやってきたスターである。否が応でも星条旗が頭にはためく。そんなスターの力を借りて、主人公であるアーシャは体制にノーを突き付け、民衆の力によって独裁者マグニフィコ王を打倒していく。そしてスターは、ほかの国の人々を守るためにロサスを去っていくのだ...。「God bless America!!」と叫ばずにはいられない物語である。

 このあとのロサスには何が待っているのか。「願い」が管理されていた時代は、少なからず「願い」は(管理のもとではあるが)叶っていた。「願い」は自らの力で叶えるために努力をしなくてはならず、そして決して叶わない願いもあると人々は知っていく。そして願いを叶えるためには、人々は他の人と争わないといけないこともきっと知る。このあとのロサスは、きっと大きな変化に直面するのだろう。マグニフィコ王にも最初は崇高な理想があったけれど、どこかで現実と折り合いをつけたり人々の声を聴いたりして、いまの社会システムになったのかもしれない。魔法の杖をアーシャに託して去っていくスターの姿は、体制転換後の現地人による新政府を設立する米軍のようである。「God bless America!!」と叫ばずにはいられない物語である。

 「「夢」と「願い」の力を信じて、奪われた「願い」を取り戻していく」というテーマは、非常に力強いものであるし正しいものだ。100周年記念作品なのでわかりやすくシンプルにそのテーマを描くのも理解できる。ただしシンプルイズザベストではあるけれども、それがゆえに主人公やほかのキャラクターの心情の変化がとぼしく、なんとも感情移入しにくく物語に深みがない。たとえばアーシャが「「願い」が管理されている社会もこんな良さはあるんだけど、それでも私はノーを突き付ける!!」みたいな葛藤があっても良かったんじゃないかなと思う。これがあれば去っていくスターをみて現実世界のアメリカのことを思い出さずに、涙ながらにきれいなものだけを観て見送ることができたと思う。

 とはいえ、現実世界の権威主義的な国・組織における人々の支配を夢と魔法の世界にエンターテインメントとして映し出して楽しくみせているのはさすがディズニーであるし、曲中で流れる音楽はどれも素敵なものだ(当方、字幕鑑賞です)。最後の曲のリプライズバージョンは普通に涙しました。そしてこの物語がすべてのディズニー物語の祖に位置付けられるみたいな話も胸アツだった。アーシャのお爺さんの願いが叶って「星に願いを」という名曲ができ、アーシャのロバの願いが叶ってズートピアという物語ができたんだろう。そう考えると、「願い」とか「夢」とか「こうありたい」みたいなものはとても美しいものだ、ということは実感して劇場を後にすることはできた。

 200周年記念作品では、これまで出てきたディズニーキャラクターがこれまで出てきたすべてのヴィランキャラクターに立ち向かい、このウィッシュの劇中歌をうたって願いの力で撃退する物語を強く期待したい。そしてきっとそこにはディズニーだけでなく、マーベルやピクサールーカスフィルムのキャラクターも大集合し、圧倒的なキャラクターIPの力で観客をねじふせる映画を作ってほしいと思うポンタヌフなのであった。

 

個性と自由ではみ出していく『窓ぎわのトットちゃん』の感想

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珍しく妻が「映画を観たい」と言う。2人で映画に行くときは、もっぱら私から言い出すことが多い。そして感想を言い合う仲間がほしいので、「映画の満足度のパーセンテージによって映画チケット代を自分の財布で負担する」という謎の制度を敷いている我が家にとっては、なかなか珍しい事例であった。「たまには普段観ないような映画でも観るか~」と思い、観に行くことにした。

 正直に白状すると、予告で観た唇と頬の色味を強調した人物アニメーションがあまり好みではなく、「あいみょんの新曲をスクリーンの音響で聴けるからいいかな」くらいの気持ちで劇場に向かったわけだが、これがすこぶる大傑作であったのだから驚きだ。フツーに3回くらい涙を流しました。

 『窓ぎわのトットちゃん』は、黒柳徹子の自伝小説である。平成生まれの自分は聞いたことはあるが読んだことはない。黒柳徹子世界ふしぎ発見!でしか会ったことのない人である。そういえば世界ふしぎ発見!も来年には終わるらしいね。オイ日立どうにかしてくれよ、と思います。あらすじはとしては、トットちゃんは、天真爛漫かつ自由奔放なふるまいのせいで、小学1年生で学校を退学になってしまう。代わりに通う学校は、自由が丘にあるトモエ学園。そこでは校長先生が、生徒の個性や自主性を重んじる教育方針であり、そこで過ごしていくトットちゃんの成長を描く...というお話である。

 この映画に通底するテーマは、「個性と没個性」である。「個性」の象徴が、トットちゃんである。小学校を放校されるくだりも、授業中に机の開け閉めを繰り返し、チンドン屋が来ると窓から呼び込みほかの生徒をアジるなど、多動性障害に近しいなかなかヤバい所業である。そんな日本の公立高校では手に負えないトットちゃんをはじめ、さまざまな個性をもった生徒が集まるのが、自由が丘の私立小学校トモエ学園である。

 トモエ学園では、時間割を定めておらず自分のやりたい科目から勉強をしたり、ピアノを用いたリミテック教育をしたりなど、それぞれの児童の自主性と個性を重んじる教育をしていた。小児まひのヤスアキちゃんや帰国子女の児童などを受けて入れており、まさに日本の教育システムからあぶれた子どもたちの受け皿となっている場所である。この映画の時代背景的にいえば富国強兵の時代の画一的な教育システムと非常に対照的であり、また戦後の画一的な日本の教育制度の鏡像ともみれるような描写だ。

 ともかく、この自由空間で日常を過ごすトットちゃんのパートが映画のほとんどを占めるのだが、なぜか退屈せずに観れてしまうのだ。それはひとえにトットちゃんの声優である大野りりあなの演技が激ウマだからである。ほんとにすごい! これはプロの声優がやってんだろうな~と思いながら観ていたのだけど、調べてはマジの7歳だった。芦田愛菜寺田心に次ぐ、次世代の天才子役の登場である。ともすればクソガキ感が出てしまいがちな(単純に小学生以上大学生以下の子どもが苦手なんで偏見入ってるかも)子どもの描写であるが、子どもがやっているのに鼻につかず、単純にかわいいな~と観れる。これはアーニャを演じた種崎敦美以来の発明である。マジで7歳かよ...となるのでスゴイ。20代後半にして7歳の演技を上手く言語化できないとは...。

 あとはアニメーションの妙である。ところどころの印象的なシーケンスで、トットちゃんや子ども目線で世界を描写するが、このアニメーションがとても良い。序盤のクレヨンで書いたような電車のシーンや、水彩画のような水中シーン、そして海外の小説の挿絵なのか切り絵なのかような表現がされる夢のシーンなど、映像表現としても飽きないシーンが挟み込まれ、なかないに面白い。

 また、昨今のアニメではありがちな「説明」がなく、しっかりと描写で説明をしてくれるのだ(まあそれもトットちゃんの声優の演技力あってのことだけど)。トットちゃんと小児まひヤスアキちゃんが木登りをしたあと、土に汚れた洋服を抱えて涙を流すヤスアキちゃん母親のシーンは感涙である。また、心無い言葉でタカハシくんを傷つけた先生を叱る校長を陰からみるトットちゃんのシーンなど、モノローグやセリフ回しでの「説明」では感情や成長が語られないため、観ていてストレスにならない。

 そして、なんといっても優れているのが「戦争」の描写だ。トットちゃんは東京の裕福な家庭であるため、当時の日本においてはなかなか戦争から遠い場所にいた。序盤の戦争の描写は、ラジオから聞こえてくる声や背景のポスターなど、気づこうとしなければ気づかないように描写されている。確かにそこに戦争はあるのだ。そして映画後半は、トモエ学園と世の中が戦争に侵食されていく描写が続く。服飾が得意な母親のお気に入りの洋服はモンペとなり、みんなが持ってきた様々なお弁当は日の丸弁当ひいては配給米だけとなり、自由に書いていた絵は兵隊や戦闘機の絵となり、自由に駆け回っていた校庭にはイモ畑ができていく。いつも挨拶をしていた男性の駅員さんはいつのまにか改札からいなくなっており、友達と歩く道すがら優しい声をかけてくれる人はもうおらず、卑しい歌をうたうなと叱責される。そして、トットちゃんが教会から学校まで駆けるシーケンスは秀逸である。世の中のすべてが「死」にまみれているように見え、トットちゃんの絶望や悲しみを戦争のそれと重ね合わせている。

 そして最後のシーンでは、トットちゃんは大人にならざるを得ず、もう疎開先でみたチンドン屋に心が躍らない。弟(それとも妹?黒柳徹子にわかです)を母親代わりにあやしている。戦争という環境によって大人にならざるを得なかったのだ...。焼夷弾に燃えゆくトモエ学園を眺める校長の目には、怒りの炎が消えることない...。画一性を押し付けられた犠牲者としての反戦メッセージも読みとれる。また、弟に最後かける言葉は校長に言われて救われた言葉であるから、個性を大事にする教育は大事だ、というポジティブなメッセージとも読み取れるのは、その後のトットちゃんというか黒柳徹子の活躍を我々が知っているからだろう。

 ともかく、劇場中からすすり泣きが聞こえるのは、『アベンジャーズ:エンドゲーム』のアッセンブルシーン以来でよかったです! あと、エンドロールのあいみょんの曲で涙腺にブーストかかりました。これは『鬼滅の刃:無限列車編』のエンドロールの炎以来です。

 

セカンドチャンスは与えられるべきか?『Marvel's スパイダーマン2』

※11月初めに書いた記事が下書きフォルダにあったので供養します。

 

プレイ時間:30時間くらい(トロコンまで)

 

 『Marvel's スパイダーマン2』をクリアしたので感想を書いていく。なお、諸般の事情によりなくなく英語音声・英語字幕でプレイしたので見落としがあるかも。

 

密度濃すぎ!!!!

 一言でいうなら、「密度濃すぎ!!!!」という軽薄な感想になってしまう。オープンワールド全盛期のこの時代には、マップが入り組んだだけでは「密度濃すぎ!!!!」といあう乾燥にならない。1つ1つのミッションのアクションや魅せ場が多く、時間に対するアクションの密度が高いのだ。決して30時間というとここ最近だと決して長い時間に思えないのだが、30時間とは思えないボリュームを感じることができる。

 「密度の濃さ」を感じる理由には2つあると感じた。1つはプレイアビリティの問題である。過去作はガジェット類をホイールで選択する方式であったため、切り替え時に戦闘が一時中断してしまっていた。今作ではR1/L1+△〇×□キーでさまざまなガジェットやアビリティを発動することができ、さらにパリィも追加された。そのため、戦闘がノンストップかつ簡単に敵を蹴散らすことができる。そのため、(敵AIがバカすぎてマジめにやるのが馬鹿らしくなる)ステルスシーケンスも戦闘でゴリ押しをすることもできるのだ。今作のステルスシーケンスは、なんとも言い難い悲しさを感じた…。視界に確実にスパイダーマンが天井にウェブを張り巡らしているのが見えるはずなのに、何もしないAI…。後半のシンビオート編からはそのようなシーンが消えてよかったです。

 2つめは、スーパーヴィランの豪華さである。今作のメインヴィランは、クレイブン・ザ・ハンターとヴェノムであるが、彼ら以外にも沢山のキャラクターが登場するため、「ちゃんとアメコミのゲームをしてるんだな~」という気持ちになれる。

God of Warか?と見まがうサンドマン

 ザコ敵を使っておけばいいのに、巨大サンドマンが出てくるという超豪華な序盤のチュートリアルから幕を開けるこの作品。巨大サンドマンと広大なマップを縦横無尽にかけるこの戦闘をもって、PS5のマシンパワーを見せつてくるスバシライ導入であった。やっぱりゲームって序盤のチュートリアルは退屈になりがちだけど、ここまで飛ばしているのはスゴイ!!

さようならスコーピオ

 そしてクレイブン・ザ・ハンターが、ニューヨーク中の超人を相手に“狩り”を始めることで物語は動き始める。そしてスコーピオンことマック・ガーガンは、クレイブンのかませとして散る…。スコーピオン、カメオ以外映像化もされていないので、不憫さを感じてしまった…。

 そして最初はサブプロットとして絡んでくるシンビオート…。中盤までは恐ろしいほどストーリーに関わってこないので???となっていたものの、上記のようにシンビオートスーツのスパイダーマンもボスとして登場する。これぞ主人公が2人いるシステムを活かした設定!! いやこれがしたくてこうしたんだろう!! ととても楽しい戦闘を楽しめる。

ストーリー随一のNTR展開…これだけで映画とれそう

 そしていよいよ登場するヴェノム……。映画作品では愛くるしいペットに成り下がってしまったが、今作では地球を滅ぼすほどの悪の活躍をみせ、まさに悪魔と呼ぶべき活躍をみせる。そしてまさかのヴェノムのプレイアブルシーンも!!! 「Marvel's ヴェノム」と「Marvel's メリージェーンワトソン」もぜひ開発してほしいです。ヘイリー編は不要です。ライフイズストレンジみたいでちょっとだけ面白かったけど。

ヴェノムのプレイアブルシーンは、なかなか面白かった

「セカンドチャンス」

 わけあって英語音声・英語字幕でプレイすることになったわけなのでストーリーは大枠でしか把握していないが、今作品に通底するのが「セカンドチャンス」というキーワードである。サイドミッションではメンタルをやられたサンドマンをリハビリするものもあれば、次世代エンターテイナーとなったミステリオことクエンティン・ベックも出てくれば、自動車整備士として働くトゥームストーン、そしてオズコープで働くリザード…。かつてスーパーヴィランとして悪行を尽くしたわけであるが、人生やり直せるんだというメッセージはなかなかに興味深いものだった。まあ日本では人生1回ミスるとやり直しがなかなか効かないからな。生活保護受けるハードルが高い国はなかなかないし、今はSNSのせいでかなり厳しい日本社会に思いを馳せた。

ブラックキャットもその文脈で語られていたが、これは窃盗だからアウトな気もするんだけど・・・

 ただし現実は甘くなく、そう簡単にセカンドチャンスはつかめるものではない。現実のアレコレはさておき、今作ではそのハードルとして描かれるのはクレイブン・ザ・ハンターである。超人たちをハントしまくるというストーリーラインのおかけで、かつてのスーパーヴィランが毒牙にかかっていく・・・という物語である。

 最終的にはこのセカンドチャンスというキーワードをもとに、マイルズは父親の仇敵であるミスターネガティブに復讐心以外の感情を向けることができ、そのおかげでピーターをシンビオートから救うことができる。それは結果として、自分自身を許すことができなかったビーターにセカンドチャンスを与えることに繋がるのである。

 というように、セカンドチャンスというキーワードでメインストーリーとサブストーリーが繋がっていくので、なかなかプロット的にも楽しめた。ただしマイルズの高校のミッションてめーはだめだ。

 

ということで

 映像表現と優れたプロットのおかげで、なかなかに楽しめた作品であった。ただ、戦闘面はプレイアビリティが改善されたものの、ちょっと飽きがくるのも事実ではある。基本的にメインミッションもサブミッションもザコ敵との戦闘が多いので、まあ飽きてくるよね。おそらくこのふんだんに散りばめられた伏線の数々をみると次回作も確実作られるので、戦闘面でのブラッシュアップを期待したい。

 次回作の主人公は、きっとマイルズ・モラレスとシンディ・ムーンのバディものであり、メインヴィランはグリーンゴブリン。そしてカメレオンとかドックオクとかカーネイジが出てくるんだろう。あとはモービウスをプレイアブルキャラクターにして供養してください・・・。あとは、今回のサブミッションをみると、スパイダーバースとのクロスオーバーもゲームで期待してもいいかもしれない。

 次回作がアメコミファンとしてもゲーマーとしても楽しみ!!

 

歴史映画というよりナポレオン密着ドキュメンタリーな映画『ナポレオン』

映画『ナポレオン』オフィシャルサイト | ソニー・ピクチャーズ

 

 高校のときの世界史の勉強をひたすら思い出していた。フランス革命に始まる欧州近代史の勉強は、なかなかに楽しかった記憶がある。テニスコートの誓いだのアンシャンレジームだの恐怖政治だのなかなかカッコよさを感じる用語が飛び交って、そして現代史との連続性も感じる時代であったため、教科書なり用語集を読み漁ったものである。そんな思い出を抱きつつ、当時の得意科目が世界史であったこともありまして、フランス革命におけるマリーアントワネットの処刑からナポレオンのセントヘレナ島の最期までを描いた『ナポレオン』を観たわけである。

 さて、物語は必ず起承転結が必要である。加えて、映画ではところどころに盛り上がるポイントを入れ、この先をもっと観たいと思わせる工夫が必要である。この作品は、マリーアントワネット処刑からナポレオンのセントヘレナ島での最後までを文字どおり描いており(とはいえオミットされた史実もあるが)、なんというか淡々とナポレオンの人生模様が続いていく。ジョゼフィーヌとの愛憎劇と戦争シーンが交互に繰り返されているので、まぁ盛り上がるシーンはところどころに挿入されるのだが…。そして2時間40分近くある上映時間でもあるので、「長い...」と感じてしまう。そのせいで終盤の魅せ場であるワーテルローの戦いのシーンでまさかの寝落ち! ウトウトしながら観ていたら気づいたらイギリス軍がロの字陣形を組んでました...。途中で起きてよかった。

 では、淡々と史実を並べていく、そして長い上映時間ということで、歴史がわかりやすいかというと、そうでもない。この作品での神の視点は俯瞰しておらずナポレオンに密着している。そのため、なかなか歴史上の出来事の繋がりが理解しにくい(まあそれは教養なのでは?、と言われればそうかもしれないけど...。欧米人はこのへんよく知ってるんですかね)。たとえばナポレオンがクーデターによって総統政府を打倒するシーンや、皇位を得るシーン、そしてロシア遠征の失敗から退位のくだりなど、かなり歴史の知識を前提として組み立てられている気がする。まあなんとなーく最低限の理解はできるようなつくりにはなっているが、大学入試の世界史より難しい!! と思ったのも事実である。Wikipediaで予習してから観たほうがいい。

 もうちょっとナポレオンの功績にも触れてやってよ~と思ったのも事実である。たしかにナポレオン戦争では300万人以上の犠牲者が出ている。その観点からいえば、「果たしてこの人物は英雄だろうか」という問題提起を中心に描かざるを得ない。とはいえ、自由・平等・博愛を謳い王政を打倒したフランス革命精神を潰そうとした対仏大同盟による武力行使があってのナポレオン誕生である。内政面においてはナポレオン法典の整備など諸々の功績はあるわけで、この作品だけ観ると、ナポレオンの野望と名誉欲だけで世界中を巻き込み沢山の犠牲者が出した悪魔のようにしか思えず、ちょっとフェアでないような気もした。フランス革命後にヨーロッパ中からいじめられたフランス、という国際情勢をもう少し補足をして観客に同情的にみせるやり方をしてもよかったのにな~というふうに思った。まあすでに英雄視されすぎているから良いのかも。

  と、マイナスポイントを並び立ててしまっているが、当然グッドポイントもある。それぞれの合戦シーンは、かなーり力がいれられており見ごたえがある。特にアウステルリッツ三帝会戦は、軍師ナポレオンの才能と残酷さを画から感じられてとても素晴らしい出来栄えである。多くの世界史選択者がかっこいいと思ったであろう「アウステルリッツ三帝会戦」が映像化されたことに喜びを禁じ得ない。そして、それと対照的に描かれるワーテルローの戦いも良い(ちょっと寝たけど)。すでにナポレオンの戦略が通用しなくなってしまったことが戦況という視覚的に描かれている。「アウステルリッツの勇者たちよ」と兵士を鼓舞する皇帝ナポレオンも、過去にすがる姿のようで無様である。ド迫力の合戦シーンを大スクリーンで観れただけでも、劇場鑑賞の価値はあったと思います!

 あとは、ナポレオンとジョゼフィーヌの関係性がセカイ系のように描かれているのは、上記のマイナスポイントと感じる一方で、きらいではなかった。ナポレオンがエジプト遠征から凱旋したのも、ジョゼフィーヌの浮気が原因であった。そしてロシア遠征が上手くいかないのも、ジョゼフィーヌとの離縁が原因にあった。みたいな観方もできるような気がして、ふたりの恋愛模様が欧州世界に影響をあたえているのはさながらセカイ系のようであった。まあアニメとは異なり、恋愛模様は生々しいんですが。歴史上の偉人を一人物として描いていくのは、さながら北野武の『首』のようでもあった。ナポレオンの求愛行動の唇慣らしと子づくりで朝食をのシーンは必見。もはやコントである。

 ということで、この作品は、歴史映画でも伝記映画でもなく、ナポレオン密着ドキュメンタリーと理解したほうがよい。上映時間は長いし人は選ぶと思うが、合戦シーン(と朝食子づくりシーン)は一見の価値ありであるので、楽しい作品だと思います。