個性と自由ではみ出していく『窓ぎわのトットちゃん』の感想

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珍しく妻が「映画を観たい」と言う。2人で映画に行くときは、もっぱら私から言い出すことが多い。そして感想を言い合う仲間がほしいので、「映画の満足度のパーセンテージによって映画チケット代を自分の財布で負担する」という謎の制度を敷いている我が家にとっては、なかなか珍しい事例であった。「たまには普段観ないような映画でも観るか~」と思い、観に行くことにした。

 正直に白状すると、予告で観た唇と頬の色味を強調した人物アニメーションがあまり好みではなく、「あいみょんの新曲をスクリーンの音響で聴けるからいいかな」くらいの気持ちで劇場に向かったわけだが、これがすこぶる大傑作であったのだから驚きだ。フツーに3回くらい涙を流しました。

 『窓ぎわのトットちゃん』は、黒柳徹子の自伝小説である。平成生まれの自分は聞いたことはあるが読んだことはない。黒柳徹子世界ふしぎ発見!でしか会ったことのない人である。そういえば世界ふしぎ発見!も来年には終わるらしいね。オイ日立どうにかしてくれよ、と思います。あらすじはとしては、トットちゃんは、天真爛漫かつ自由奔放なふるまいのせいで、小学1年生で学校を退学になってしまう。代わりに通う学校は、自由が丘にあるトモエ学園。そこでは校長先生が、生徒の個性や自主性を重んじる教育方針であり、そこで過ごしていくトットちゃんの成長を描く...というお話である。

 この映画に通底するテーマは、「個性と没個性」である。「個性」の象徴が、トットちゃんである。小学校を放校されるくだりも、授業中に机の開け閉めを繰り返し、チンドン屋が来ると窓から呼び込みほかの生徒をアジるなど、多動性障害に近しいなかなかヤバい所業である。そんな日本の公立高校では手に負えないトットちゃんをはじめ、さまざまな個性をもった生徒が集まるのが、自由が丘の私立小学校トモエ学園である。

 トモエ学園では、時間割を定めておらず自分のやりたい科目から勉強をしたり、ピアノを用いたリミテック教育をしたりなど、それぞれの児童の自主性と個性を重んじる教育をしていた。小児まひのヤスアキちゃんや帰国子女の児童などを受けて入れており、まさに日本の教育システムからあぶれた子どもたちの受け皿となっている場所である。この映画の時代背景的にいえば富国強兵の時代の画一的な教育システムと非常に対照的であり、また戦後の画一的な日本の教育制度の鏡像ともみれるような描写だ。

 ともかく、この自由空間で日常を過ごすトットちゃんのパートが映画のほとんどを占めるのだが、なぜか退屈せずに観れてしまうのだ。それはひとえにトットちゃんの声優である大野りりあなの演技が激ウマだからである。ほんとにすごい! これはプロの声優がやってんだろうな~と思いながら観ていたのだけど、調べてはマジの7歳だった。芦田愛菜寺田心に次ぐ、次世代の天才子役の登場である。ともすればクソガキ感が出てしまいがちな(単純に小学生以上大学生以下の子どもが苦手なんで偏見入ってるかも)子どもの描写であるが、子どもがやっているのに鼻につかず、単純にかわいいな~と観れる。これはアーニャを演じた種崎敦美以来の発明である。マジで7歳かよ...となるのでスゴイ。20代後半にして7歳の演技を上手く言語化できないとは...。

 あとはアニメーションの妙である。ところどころの印象的なシーケンスで、トットちゃんや子ども目線で世界を描写するが、このアニメーションがとても良い。序盤のクレヨンで書いたような電車のシーンや、水彩画のような水中シーン、そして海外の小説の挿絵なのか切り絵なのかような表現がされる夢のシーンなど、映像表現としても飽きないシーンが挟み込まれ、なかないに面白い。

 また、昨今のアニメではありがちな「説明」がなく、しっかりと描写で説明をしてくれるのだ(まあそれもトットちゃんの声優の演技力あってのことだけど)。トットちゃんと小児まひヤスアキちゃんが木登りをしたあと、土に汚れた洋服を抱えて涙を流すヤスアキちゃん母親のシーンは感涙である。また、心無い言葉でタカハシくんを傷つけた先生を叱る校長を陰からみるトットちゃんのシーンなど、モノローグやセリフ回しでの「説明」では感情や成長が語られないため、観ていてストレスにならない。

 そして、なんといっても優れているのが「戦争」の描写だ。トットちゃんは東京の裕福な家庭であるため、当時の日本においてはなかなか戦争から遠い場所にいた。序盤の戦争の描写は、ラジオから聞こえてくる声や背景のポスターなど、気づこうとしなければ気づかないように描写されている。確かにそこに戦争はあるのだ。そして映画後半は、トモエ学園と世の中が戦争に侵食されていく描写が続く。服飾が得意な母親のお気に入りの洋服はモンペとなり、みんなが持ってきた様々なお弁当は日の丸弁当ひいては配給米だけとなり、自由に書いていた絵は兵隊や戦闘機の絵となり、自由に駆け回っていた校庭にはイモ畑ができていく。いつも挨拶をしていた男性の駅員さんはいつのまにか改札からいなくなっており、友達と歩く道すがら優しい声をかけてくれる人はもうおらず、卑しい歌をうたうなと叱責される。そして、トットちゃんが教会から学校まで駆けるシーケンスは秀逸である。世の中のすべてが「死」にまみれているように見え、トットちゃんの絶望や悲しみを戦争のそれと重ね合わせている。

 そして最後のシーンでは、トットちゃんは大人にならざるを得ず、もう疎開先でみたチンドン屋に心が躍らない。弟(それとも妹?黒柳徹子にわかです)を母親代わりにあやしている。戦争という環境によって大人にならざるを得なかったのだ...。焼夷弾に燃えゆくトモエ学園を眺める校長の目には、怒りの炎が消えることない...。画一性を押し付けられた犠牲者としての反戦メッセージも読みとれる。また、弟に最後かける言葉は校長に言われて救われた言葉であるから、個性を大事にする教育は大事だ、というポジティブなメッセージとも読み取れるのは、その後のトットちゃんというか黒柳徹子の活躍を我々が知っているからだろう。

 ともかく、劇場中からすすり泣きが聞こえるのは、『アベンジャーズ:エンドゲーム』のアッセンブルシーン以来でよかったです! あと、エンドロールのあいみょんの曲で涙腺にブーストかかりました。これは『鬼滅の刃:無限列車編』のエンドロールの炎以来です。